今日は、私のお気に入り小説をご紹介します。

絲山秋子さんの『海の仙人』という作品です。

内容紹介
宝くじに当った河野は会社を辞めて、碧い海が美しい敦賀に引越した。何もしないひっそりとした生活。そこへ居候を志願する、役立たずの神様・ファンタジーが訪れて、奇妙な同居が始まる。孤独の殻にこもる河野には、二人の女性が想いを寄せていた。かりんはセックスレスの関係を受け容れ、元同僚の片桐は片思いを続けている。芥川賞作家が絶妙な語り口で描く、哀しく美しい孤独の三重奏。

私がこの本を初めて読んだときの読書メモを見つけました。

2009年9月20日
シンクロニシティとか別に信じたりしてるわけじゃないけど、最近やけに多い。多すぎる。
「海の仙人」 トラウマ 孤独 片思い ワーカホリック 海 ジープ 直球で表現する感情 加害者による被害妄想    
前に進むときもある 物事は連続している・・・ 今の私にはまだはっきりわからない。
シンクロニシティとは、「意味のある偶然の一致」。スイスの精神科医で心理学者のユングが提唱したものです。

成功哲学や自己啓発に関する本に「シンクロニシティ」という言葉はよく登場します。これまで私はそのような類の本を好んで読んできました。少しでも自分を高めたいと考えていたからです。

でも、だんだんその考え方が胡散臭いと感じるようになりました。そして「もうウンザリ!」と思うようになったのがこの日記を書いた頃。

今でも「スピリチュアル」「パワースポット」「占い」といった類のものが私は苦手です。占いも。

それでも、この本を読んで何かパワーを受け取った感じがしました。うつ病になった私が孤独と絶望の中にいたときに出会った作品。何から何まで自分と共通しているように感じ、共鳴しました。スピリチュアルで、宇宙のパワーを感じさせる、小さな奇跡(ファンタジー)の物語。……おっと、鳥肌が。

『海の仙人』 3つの名シーン


特に印象深かったシーンは3つ。「孤独」「人を好きになること」「前に進むこと」 私の心に強く響きました。

孤独

主人公の河野、元同僚の片桐と澤田、ファンタジーの4人が再会するシーン。
「ファンタジーも孤独なんだね」片桐が言った。
「誰もが孤独なのだ」
 すると、澤田が言った。
「だけんね、結婚していようが、子供がいようが、孫がいようが、孤独はずっと付きまとう。ばってん何かの集団、会社にしても宗教にしても政党にしてもNGOにしても属しとったら、安易な帰属感は得られるっちゃろうね」
「いや」
 片桐が言った。
「孤独ってえのがそもそも、心の輪郭なんじゃないか? 外との関係じゃなくて自分のあり方だよ。背負っていかなくちゃいけない最低限の荷物だよ。例えばあたしだ。あたしは一人だ、それに気がついてるだけマシだ」

療養生活に入って、私は「誰も信じられない」「人が怖い」と強く感じるようになっていました。常に孤独を感じていたんですね。でも、孤独に気付いていることを肯定する片桐の言葉に、私は救われたような気がしました。

以前の私は「仲間を持たない孤独な人間にはなりたくない」と必死でした。でも、「安易な帰属感を得て強くなったつもりでいる人たちは哀しい人間なのだ」と、考えられるようにもなったのです。

人を好きになること

河野とかりんの会話。
「また好きな人ができて幸せになってほしいって思うけど、私のことも忘れないでね」
「なに言うてるんや」
「でも私はあなたのこと、好きになれてよかった。今だけでも、あなたと、あなたのことを好きな自分がここにいることがとってもありがたいって思う」
「そんなこと言うな、あほ」

私の孤独感を強めた要素の一つに、報われない片思いがありました。

私が想いをよせる彼。私と彼は良い友達。彼のガールフレンドとも仲良くなった。彼女のことが大好きな彼の気持ちはよく知っている。そんな彼の姿を見るたびに、私の心は痛む。

私は彼に「幸せになってほしい」と思う。だから、自分の素直な気持ちよりも、二人がうまくいくことを願うようにしていた。少し無理をして。本当は「私のことも忘れないでね」と強く想っているのに。

でも、気付きました。かりんが言うように、「私はあなたのこと、好きになれてよかった」「あなたと、あなたのことを好きな自分がここにいることがとってもありがたいって思う」それだけで充分なのだと。

前に進むこと

片桐の友人・石原がファンタジーに問うシーンがあります。
「ファンタジー、なにかをするってことは前に進むことなんですか?」石原が言った。
「どっちが前かはわからんがな。物事が連鎖するのは間違いないから、前にすすむときもあるだろう」
そして、医者を志す石原の話に片桐と河野も加わります。
「あのさ、偽善と同情は違うんだよ」片桐が言った。
「同情が嫌なのは、てめえの立っている場から一歩も動かないですることだからだろ。でも、偽善はさあ、動いた結果として偽善になっちゃったんなら、いいんじゃないの? しょうがないよ。そのとばっちりは自分に来るわけだし」
「動いて、それで患者が救われたらええんちゃう?」と河野が言った。
「救えませんよ、ファンタジーじゃないんだもの。回復のお手伝いをするだけですよ」
「えっ。ファンタジーって、『救い』なの?」片桐が言った。
「俺に救われるんじゃない、自らが自らを救うのだ」
 ファンタジーは苦々しげに答えた。
数年後、このときの会話を河野は振り返ります。
海辺で河野は、いつか片桐の友達が「なにかをすることは前に進むことなのか?」と言っていたことを思い出した。ファンタジーはその時「自らが自らを救うのだ」と言っていた。あの頃は意味なんてわからなかった。今は違う。生きている限り人間は進んで行く。

「前に進むときもある 物事は連続している・・・ 今の私にはまだはっきりわからない」と日記に書いた私。

今は違います。河野が言うように、「生きている限り人間は進んで行く」ということを理解できるようになったから。

「前に進めない自分」「一歩も踏み出せない自分」に悩んでいた私。「何かしなければ!」「前に進まなくては!」と四六時中、焦っていました。

でも、「どっちが前かはわからん」「前にすすむときもある」というファンタジーの言葉で気付きました。大切なのは進むこと。前に進んでも、後ろに進んでも構わない。

ここで言う「前・後ろ」は「右・左」と同じ。優劣はありません。そして、「進む」というのは「動く」こと。つまり、「生きている(=動いている)限り人間は進んで行く」。

そう考えれば、「前に進めない自分」「一歩も踏み出せない自分」に悩むのも、「進む」こと。「何かしなければ!」「前に進まなくては!」と焦るのも、「進む」こと。

こんなふうに私は解釈しました。

最後に


こうして私は、この物語に心の傷を癒してもらいました。

「孤独」
「人を好きになること」
「前に進むこと」

それがどういうことなのか知ることもできました。

さらに、作品のあちこちに散りばめられた音楽や車の魅力、美しい自然の景色に心が洗われました。

冒頭で触れたシンクロニシティ。作者の絲山秋子さんが双極性障害(躁うつ病)を患ったこと、休職・復職・入院・自宅療養を経験していることも「意味のある偶然の一致」のように感じたのでした。


心の中にうずまく悩み、葛藤、焦燥など。モヤモヤを抱えている方にぜひオススメしたい一冊です。きっとあなたの心に届くメッセージがあると思います。


<本日の一冊>
絲山秋子 (2004)『海の仙人』 新潮社

▼文庫版の表紙もステキです。